トニーの滅学

滅ぼすことによって創造と進歩を促す。それが滅学。

人生の404 Errorをリセットしよう!

僕たちのネットの世界では、"404 Error"という言葉は、求めているものが見つからないという意味で日常的に使われます。しかし、このエラーメッセージを人生に適用してみたらどうでしょう?

幸福を探しているのになかなか見つからない状況は誰しも経験していると思いますが、そんな時、僕たちはどう行動すれば良いのでしょうか?

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ページをリフレッシュしよう

ネットで"404 Error"に遭遇した時、僕たちはほとんどの場合ページをリフレッシュすると思います。

時にはそれだけで問題が解決することもあります。

何が言いたいのかというと、人生においてもこのアプローチを取り入れてみてはどうだろうと思うわけです。自分の人生において何かがうまくいかないと感じたら、一度立ち止まってリセットしてみよう、という考え方ですね。

そうすることで問題と距離を置けるようになるので、思わぬ解決策を見つけ出すきっかけになるかもしれません。

 

シンプルな答え
問題に直面した時、僕たちはしばしば複雑な解決策を探し求めがちです。

しかし、時には最も単純なアプローチが最善の策であることがあります。

人生の"リフレッシュ"は、新しい趣味を始めることから、旅行に出かけること、または日常生活に小さな変化を加えることまで、やりようはいくらでもあります。ちなみに僕のオススメは外へブラっと散歩に行くことです。20~30分程度で脳がリフレッシュされることで、新しいアイデアが思いつきやすくなります。

重要なのは、問題(404 Error)に行き詰ったときにはいったん離れて白紙に戻すことです。

 

まとめ
人生で"404 Error: Happiness Not Found"という状況に直面したら、それをチャンスと捉え、ページをリフレッシュする勇気を持ちましょう。時には、一歩後退して全体を見渡すことで、前に進むための新たな道が見えてくるものです。

そうして導き出された解というのは、実にシンプルであることが多い。

ソクラテスの弁明から学ぶネット炎上との向き合い方。

ソクラテスの弁明と現代のネット炎上は、表面的には時代を超えた異なる現象のように思えます。

しかし、根底にある人間心理と社会のダイナミクスを考えると共通点が見えてくるんです。

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ソクラテスが直面したのは、真実を求める哲学的探求に対する無理解と偏見、そしてそれに基づく公の裁判でした。現代のネット炎上も、誤解や偏見に基づいた情報が瞬時に広がり、公衆の場で個人や集団を「裁く」という点で同じだと思っています。

そして両者を照らし合わせることで、人間の本質と、社会が個人にどのように影響を与えうるかについて深く考える機会になるかもしれない。

ソクラテスの時代から現代へ:変わる表現の場、変わらない人間心理

ソクラテスが生きていた古代ギリシャアテナイでは、アゴラ(公共の広場)での対話が真実を求める場でした。

ソクラテスは、自らの哲学を説くことで、多くの若者や市民の関心を良くも悪くも引き寄せました。彼の方法は、常に質問を通じて相手に自己の無知を認識させ、真実へと導くことにありました。

しかしご存じの方もいるように、これが彼の周囲の誤解や反発を生み、最終的には死刑に至る裁判へとつながったわけですね。

一方、現代のネット炎上は、ソーシャルメディアやオンラインコミュニティがそのアゴラとなっています。誤解や偏見、誤情報は瞬時に広まり、個人や団体は容易に公衆の審判を受けることになります。その速度と範囲は古代とは比べ物にならないものの、根底にある人間の本性、すなわち無知から生じる恐怖や攻撃性は変わりません。

対話が欠落した現代

ソクラテスは、対話を通じて理解と真実の追求を重んじました。彼にとって、対話は人々が互いの見解を理解し、共通の真実に近づく手段でした。現代のネット炎上の背景にあるのは、しばしば対話の欠如です。片方の意見だけが拡散され、他方の意見は無視されるか、歪められることが多々あります。

ソクラテスの弁明から学べること

ソクラテスの弁明から学べる重要な教訓は、真実とは何か、そしてそれをどのように追求すべきかという問いへの深い洞察です。

現代の我々が直面するネット炎上や偏見に対処するためには、ソクラテスのようにとまではいかないかもしれませんが、あらゆる情報に対する懐疑的態度がかなり重要になってくると思います。情報まみれの社会だからこそ。

というか、最も確実なのはそもそもネット炎上に対して関心を寄せないことでしょうね。

ネット炎上はほとんどの人にとってどうでもいい情報ですから。

 

古代ギリシャと現代で決定的に違うのは、情報量です。

今はスマホさえ開けば、無数の情報にアクセスできます。これがまずい。

人は情報過多に陥ると、正常な判断ができなくなります。

賢人であるソクラテスであっても例外ではありません。

 

つまり、情報と向き合う前にまずは余計な情報を減らして、吟味するべき情報だけに絞り込んでいく必要があるということです。そして言うまでもなくネット炎上は放置でいい。

僕たちは、このポスト真実の社会の中で個人がいかに行動すべきなのか、あるいは真実をどのようにして追求し続けるべきなのかについて、そろそろ向き合うべきなのかもしれない。

 

滅学の始まり

「滅学」という言葉を作ろうと考えてみた。

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これまでの人類は、何かを創造したり増やすことによって文明を発展させてきました。

しかし、良い面ばかりではありませんでした。

 

選択肢、言葉、物、情報...
沢山あればあるほど良いのだと言う割には、現代人の心は貧しくなっているようにも感じます。

焦りや不安に駆られ、忙殺される日々。埋め尽くされたスケジュール。

 

皆さんもそろそろ、そんな煩わしいノイズだらけの世界にうんざりしてきたのではないですか?

世の中にいらない物で溢れかえってしまい、そのせいで見失ってしまった大事な物を取り戻すきっかけに飢えていませんか?

 

実際、僕達にとって本当に大事な物はそう多くないのだということに、僕達自身は薄々気がついている。

 

突然、こんな考えが浮かんだ。

何かを滅ぼすことによって、それが見つかるとしたら?

創造のための無数の歯車から不要な歯車を取り除いて、より円滑に創造を促すことが可能になるとしたら?

 

そうして生まれたのが、滅学

ちょっと安易なネーミングかもしれない。

 

何せ、20分間の仮眠の中で、ついさっき思いついたばかりですからね(笑)

 

それっぽく、滅びの哲学と言ってもいいかもしれない。それを略して、滅学

なんだか、哲学の人に怒られそうな気もしますね。

 

でも、滅ぼしたい物は沢山あります。

あの世、老害、ニュース...

まずは、こういった皆さんが当たり前に接しているものに対して懐疑的な態度を示した上で、僕自身の見解を述べていくようなスタイルで記事を書いていこうと思います。

 

反対に、滅ぼさない方が良いと考えるものについて書いていくこともあるかもしれない。

 

「滅び」というとネガティブな響きかもしれませんが、仏教においてはニローダ(制止する、コントロールする)などの意味があるそうです。

 

いずれにしても、皆さんに新たな視点を共有できたらと考えています。

視野を広げるための手段は増やすことだけでなく、減らすことによっても成り立つのだという考え方を「滅ぼす」という少々強めのワードで示していきたい。

 

これから定期的に更新していく予定なので、楽しみにしていて下さい!

 

一緒に、このノイズだらけの世界を変えましょう。